のぞき~ 姨捨(おばすて)
のぞきから善光寺街道に別れ東(右)の方向へ進みます。姨捨駅まで約3.7kmです。
姨捨
海抜547mで急勾配のため、スイッチバック方式の駅となっています。
国の名勝地に指定され、日本三大車窓の一つにも選ばれています。

長楽寺
長楽寺

田毎(たごと)の月で知られる月の名所。
面影塚(おもかげつか)

芭蕉句碑「面影塚」は日本三塚の一つです。
姨捨山の月 ~二つの名所の歴史~
信濃の国 更級(更科)(さらしな)、姨捨といえば古くから知られた月の名所です。
現在、麻績村と千曲市姨捨の両地域とも『月の里』を名乗っています。
「姨捨山の月」が時代によってどう変化してきたのか述べます。
歌枕・姨捨、更科
古来、歌に詠みこまれた諸国の名所が歌枕です。
信濃の国を詠んだ和歌の中で44%は「更科」、「姨捨」が占めています。
都の歌人にとって信濃といえば姨捨、更級の月だったのです。
和歌の時代 -東山道支道 更級郡麻績の駅(うまや)-
姨捨山が文学史上に初めて現れるのが次の歌です。
『わが心 なぐさめかねつ さらしなや 姨捨山に照る月を見て』
「古今和歌集」(905年)に載った作者不明のこの一首からすべてが始まりました。
この歌に刺激されて姨捨山の月が次々と詠まれ、大和物語や今昔物語で棄老伝説と化し姨捨山のイメージが出来上がってゆきました。
『今宵(こよい)われ 姨捨山の麓にて 月待ち侘(わ)ぶと誰か知るべき』
作者の前大僧正覚忠は平安末期、善光寺詣での途中、麻績の宿駅からこの歌を詠みました。
この頃すでに姨捨の月と善光寺は全国的に有名だったようです。
この時代古代官道が通った更級郡麻績郷が姨捨山(冠着山:かむりきやま)にかかる月を眺める名所だったのです。
俳諧の時代 -長楽寺と田毎の月-
室町時代になると和歌に代わり連歌(れんが)が盛んになり、文学は庶民に広がりやがて俳諧へ発展してゆきます。
一方、古代官道は新ルートの開発で古峠から猿ヶ馬場峠に道筋を変えました。
それに伴ってか、長楽寺周辺に姨捨の月が定着してゆきます。
長楽寺を物語る「田毎の月」の初見は現在のところ、室町末期の狂言本「木賊とくさ」であるといいます。
『おばすて山、田ごとの月、さらしなの里、又其の原にてふしぎなこと見たとゆふ』
その後俳人が長楽寺に訪れては俳句によって広めてゆきました。その代表者が松尾芭蕉でした。
芭蕉45歳のときに書いた「更科紀行」の一句が長楽寺を姨捨山として不動のものにしたのです。
『おもかげや 姨ひとりなく 月の友』
この時代は姨捨山から見た鏡台山(きょうだいさん)(1,269m)に昇る月を「姨捨山の月」と呼んでいます。
以上のように和歌の時代も俳諧の時代も文学作品を通して全国に広まった姨捨山の月でした。
明治になって「冠着山復権運動」が起こり、 冠着山(1,252m)が姨捨山であることが一般に再認識されることになります。
しかし300年以上の歴史は消えるはずもなく、以来、姨捨山(冠着山)にかかる月と、姨捨山(あるいは姨石)から見る月とに分かれて月の名所が存在することになりました。