聖高原駅前歌碑公園は、聖高原駅(麻績駅)開設100周年記念により、平成12年(2000年)10月1日に開設されました。歌碑は神宮社殿に向かい右奥から①から④、左手前から⑤から⑦までの7つあります。
①わすれずは 又もきてとへおみ衣 みしにもあらぬたもと成とも(伊賀光宗) |
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(返歌)たちかへり またもたつねんおみ衣 かくてはいかが山あゐの袖(信生法師) |
鎌倉幕府の重臣であった伊賀光宗は、貞応3年(1223年)北条義時の死後、将軍と執権の擁立を謀った罪により麻績矢倉村に配流されました。 嘉禄元年(1225年)、姻戚関係である新生法師が光宗の幽居先を訪れ、変わった姿に涙しながら、再会を約束して別れるときの贈答歌です。 麻績最古の史実(新生法師集より) |
②志ずはたの 織りぬふわざのいとなさや ここにをうみの里のわざとて |
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江戸後期の国学者、紀行家菅江真澄。 天明3年(1783年)8月14日、本洗馬に滞在中、友人数人と更級の姨捨山の月を賞する途次、麻績の里に休み、女性の機織を見て詠んだ歌です。 |
③山を見き 君よ添い寝の夢のうちに さびしかりけり見もしらぬ山 |
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明治45年、中町、山崎斌生家臼井忠兵衛宅において歌会が催され、若山牧水が太田喜志子らとともに同家に泊まった折の作です。 |
④更科や 姨捨山の 高嶺より 嵐をわけて出づる月影 |
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正三位家隆は鎌倉時代初期の代表的歌人、「新古今和歌集」の撰者の一人です。 この歌は麻績の里から見た姨捨山に出る月を詠んでいます。 |
⑤この村に夫は生まれしか子も亦と おもふにさびし 山峡の麻績 |
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北町品子、本名頼子(1898年~1956年)松本市初代市長小里頼永の長女。大正期後半の女流歌人。 歌は長女を麻績の里で亡くした哀惜の歌です。 |
⑥重々と屋の上に雪つもりいて 暗きまちかも吾が子いま亡し |
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岩淵要(1886年~1955年)は、歌壇注目の歌人。 長女の死を悼んで詠んだ歌です。 |
(返歌)闇に散る花火と嘆かむ束の間の 生命にもなほ君を恋しぬ |
⑦さざれ蟹 足這いのぼる 清水かな |
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松尾芭蕉、江戸前期の俳人。 各地を旅して多くの名句と紀行文を残しました。 寛政3年(1791年)秋、麻績宿の歌人鳥誐、可吟、暁平らによって、聖高原お仙の茶屋跡(弘法清水)に芭蕉の俤碑が建てられました。 |